映画

犬猿 映画の暴力はあればいいのか問題

犬猿は、映画おじさんの宇多丸さんも高評価していたので、機会があれば見たいなと思っていた作品だった。

そしたらHULUで見れるようになったので鑑賞。

犬猿の仲の兄弟、姉妹の4人の話。

結果、僕は兄弟の兄役の新井浩文を中心とする暴力が気にくわなかった。

新井浩文が本当に映画みたいな粗暴な人で実際に捕まってしまったっていう、そういう作品外の事実には興味もないしどうでもいい。

映画好きとしては、映画は血、セックス、バイオレンスでできている、そういう文化で成り立っているのは分かっているので暴力があるから悪いなんて野暮なことを言うつもりもない。

じゃあ、なぜこの映画の暴力が気にくわなかったのか。

この映画に暴力が直接的に関係ないように思うところだ。

例えるならチャーシューってうまいからのせておこうとオムライスの上にチャーシューをのせるような感じ。

確かにチャーシューはうまい、のってたら嬉しいかもしれない、でもオムライスにチャーシューっているかなという疑問は残る。そういうことだ。

もうひとつ、兄の暴力によって、その後の話が無駄にハラハラさせられるのが嫌だ。

映画を最後まで見ると主役の弟、姉妹の3人には兄はすごい暴力は振るわない事がわかる。

でも序盤の兄の暴力を見せられた僕としては、例えば弟と姉妹が会食をしているところに兄が現れるシーンで、乳が目立つ服を着ている筧美和子演じる妹が暴力に巻き込まれるのではないかをハラハラする。

実際には起きない、意図してるのかしていないのかわからないミスリードによって、心が動かすのがいい作品とは思わないのだ。

ちゃんと意図してミスリードをして見ている人を驚かせるユージュアルサスペクツみたいなことであれば当然100点である。

テレビ番組のプレバトで俳句の先生、夏井先生が俳句を評価しているのを見ていると、作者の伝えたいことが読み手にちゃんと伝わるか、それが評価の重要な基準になっている。

例えば、近々の放送であった、馬場典子の俳句 ささらめく 洗い茶巾や 軽井沢。

馬場さんは軽井沢にいるような爽やかな気持ちを読んだと言っていたのだが、この俳句では軽井沢でお茶会があったのかなとしか読めないと評した。

読者に誤読をさせてはいけないということだ。

映画もミスリードをしたいのならする。勝手に見る人が、ハラハラしてしまうのはいい作品ではないと僕は思うのだ。